雑駁記——藤沢図案制作所——

ざっぱく【雑駁】(名・形動) 雑然としていて、まとまりのないさま。「_な知識」「文明の_なるを知らず、其動くを知らず」〈文明論之概略諭吉〉

「創作展 感じるパッケージデザイン展」 1 (試作篇)

JPDA(日本パッケージデザイン協会)の企画展。

僕としては、「言葉はなくても伝わる」という言葉にこだわっていてはどうもならないので、とりあえず何か作ってみることにした。

 

コンセプトワークというのは、言ってみれば「概念の言語化」だ。言葉によって構築された概念が、デザイン作業の軸となり指標となるし、プレゼンテーションの際に、受け手が納得するロジックやキーワードもそこから導きだされる。

なのだが、とりあえず、その過程をとっぱらって、紙と定規とカッターナイフを用意するところから始めた。

 

f:id:fujisawa-zuan:20180811014042j:plain

ストライプ(縦縞)をプリントではなく造形でできないだろうかと思いたち、いろいろ試してみた。はじめは、紙を折ることで縞模様を作ろうとしていたのだが、上手くいかないのでスリットを入れることにした。上の写真はかなり試行錯誤を重ねた後のもの。切り込みを入れて、隣り合う帯を上下互い違いになるよう、間に柱と言うか支えになるような紙片を入れてみた。

 

f:id:fujisawa-zuan:20180811124647j:plain

f:id:fujisawa-zuan:20180811124702j:plain

天面のスリットの入り方や支えの入れ方をいろいろと試してみる。

 

f:id:fujisawa-zuan:20180923133748j:plain

f:id:fujisawa-zuan:20180924120715j:plain

f:id:fujisawa-zuan:20180815010442j:plain

f:id:fujisawa-zuan:20180924120732j:plain

この時点で製作行程上の「弱み」となっている上下スリットの支えがあることが、見た目の上でも目障りというか気になるので、「切る」だけでストライプを作れないかとやってみるが、上手くいかない。中にはこれはこれで違うことができそうなものも無くはないのだけれど。

 

f:id:fujisawa-zuan:20181001021217j:plain

ふと、プロペラ状のひねりを入れることを思いつく。この写真のものだけ正方形になっていることに深い意味はなく、まだこの時点では最終的にどんな作品になるのか全く見えていなかったため。ひたすらスリットを使った造形のみを試行錯誤していた。

 

f:id:fujisawa-zuan:20180923133620j:plain

ようやく、「支えの紙片を見せてしまおう」ということに思い至ったもの。

これを思いつくまでに実に1ヶ月近くかかった。もちろん毎日毎日朝から晩まで紙を切り刻んでいたわけではないけれど。

「創作展 感じるパッケージデザイン展」 0 (思索篇)

日本パッケージデザイン協会では、定期的に会員デザイナーによる作品展を開催している。

前回は「日本を包む」と題して、日本語/日本の言葉を8つえらび、それらを”包む”パッケージを提案する、という趣向だった。

今回のタイトルは「感じるパッケージデザイン」、”感じる”=”言葉はなくても伝わる”デザイン、ということになった。

前回の企画で、日本語を包む試みは遣り切った、ということなのだろうか。 …日本語ってそんなに小さな世界かなあ。それこそ「いき」という言葉ひとつにしても、実に奥深く、幅広い世界があると思うのだが(個人の感想です)。

 

さて、「言葉はなくても伝わる」とは、どういうことだろう。

単純に考えれば、パッケージ/グラフィックデザインにおいて、日常的に行われていることにも思える。

例えば、芳香剤のパッケージに柔らかい曲線や澄んだ色を配したり、日本酒のラベルが和紙に書かれた筆文字をあしらうのは、それぞれ「製品独自の良い香り」や「日本の伝統」といったことを言外に伝えたいからだろう。

思いついたうちで秀逸なの例として、ネピアの「鼻セレブ」なんかいいなあと思う。動物たちの顔の写真のトリミングの仕方やかわいらしさやが、頻繁に鼻をかむ人にとってやさしい使い心地であることが感じられる、実に巧いデザインだと思う。

また、プロダクトデザインにおいては、質感や機能性を伝えるということは基本的な命題だろうし、説明書なしに製品を使えるようなボタンの配置/パネルのデザインにも心砕いていることだろう。

ボタンと言えば、ピクトグラムも言葉を介しないで情報を伝えるデザインの手段だろう。「こちらへどうぞ」「ここがトイレです」「電源ボタンです」「音量が上がります」こうした内容が言葉無しに理解できる。街中で日本語を使わずに案内をすることは、今後もっと重要になってくるだろう。

けれども、芳香剤や日本酒の例では、上のように言葉にできてしまう時点で、”言葉”を”ビジュアル”に翻訳したにすぎない、とも考えられる。ピクトグラムなど逆説的にその最たる例だろう。どんなにビジュアル表現を駆使したところで、伝えたい感覚や概念は言葉ではないだろうか。つまりは、言葉を使ってなくても、その裏には”言葉があるデザイン”ではないか、ということだ。

伝えたいことが”言葉”である以上、それは「言葉はなくても伝わる」デザインとは言えないのではないかと思う。

 

f:id:fujisawa-zuan:20180923131014j:plain

 

ならば、「言葉はなくても伝わる」とは、「言葉にできない感覚や概念」があり、それがなんらかの表現方法によって他者に伝わる、ということだろうか。

一見、正解のようにも思えるけれど、これはさすがに理想的すぎるし、具体性にも欠ける。そもそも「言葉にできない感覚や概念」とは何だろう?それは説明できた時点で「言葉にできない感覚や概念」ではなくなってしまう。つまるところ、この定義は絵空事ではないかと思える。

 

f:id:fujisawa-zuan:20180923131004j:plain

 

要するによくわからないテーマである。少なくとも僕には、よくわからない。

協会が、こういうよくわからないテーマでもって、何を現代の日本に発信したいのか、当然ながらそれもわからない。

こんなことでは、作品など作れはしない。

ぐだぐだ言っても仕方ないので、ぐだぐだ言うことはやめにして、つまりは言葉を封印して、とりあえず手を動かすことにした。

とっかかりは全く無かったわけではないけれど、今回のテーマを尊重して、ここではあえてそれを言葉にはしない。

ともかく、そのとっかかりに依ることで、箱を作ろうとしたのだった。

 

f:id:fujisawa-zuan:20180923131023j:plain

九鬼周造 「『いき』の構造」

f:id:fujisawa-zuan:20181001000430j:plain

 

常に「いき」な大人でいようと思いはしても、なかなか敷居は高いものだ。

せめて不粋ではいたくない/野暮な人にはなりたくない、くらいは意識して過ごしていきたいとは思う。それとてかなり難しいことではあるけれど。

さて、この「いき=粋」だの「不粋」だの「野暮」だのという言葉、正確にはどういう意なのだろう。あらためてそんな疑問が浮かんだおりに出会ったのが本書である。

青空文庫でも読むことができる、おそらく古典と呼んでさしつかえないだろう。

 

著者の九鬼周造は哲学者であり、この本も哲学書である。だからというわけではないけれど「いき=粋ってこういうことなんだ!」なんて明快にわかる、という読後感は持てない。

文章も決して平易ではない。

例えば、「”上品/下品”は、人性的一般性に基づく、対自性の区別である」などと言われてもなんだかわからない(ここだけ抜粋してもわからなくて当然ではあるけれど)。

 

個人的に興味深かったのは、まず三章の「『いき』の外延的構造」。

「いき」となんらかの関係を持つ言葉をあげて、それらを関連づけて最終的に図に表現している。

「そこまで上手いこと割り切れるものかなあ」という懐疑心もなくはないけど、少なくともデザインをする上での指標の一つにはなりうると思う。

 

また、五章の「『いき』の芸術的表現」においては、文様(特に縞模様)や色彩についての、つまりはグラフィックデザインについての原則的・実践的な示唆と読むこともでき、前述した三章と合わせ、今でも通用するクリエイティブにおけるルールを見つけることができる。

ここは図版があればもっと解りやすかっただろうに、なんてことも思うけれど。

 

図版が無いということは、この本を読む以前にさまざまな「いき」な文物などを見聞きしていて、それらから「お、粋だねえ」という感覚を覚えたことのない人には、本書で説かれていることはちんぷんかんぷんかもしれないということも言えるだろう。

事実、長唄などの日本の音楽に見られる(この場合は聴かれる、か)粋についてのくだりはそうした曲を聴いたことのない僕にはさっぱりわからなかった。

 

とは言え、「日本人がなんとなく了解していながら、ついに誰一人として説明を省いてきたこと(「松岡正剛の千夜一冊」より引用)」を定義しようとする姿勢くらいは理解できるし、わからないなりに通読すれば、それまでなんとなく使っていた「いき=粋」という言葉の解像度が何段階か上がる感覚は持つことができると思う。

そんな風にして、自分の中の「いき=粋」の概念をバージョンアップすることで、あらためて「いき」な大人でいること、不粋や野暮でいないことの難しさもいまいちど感じてしまう。

結局は本書を物差しのひとつとしつつ、これからも経験を重ねて、自分なりの「いき」の構造を構築していくほかないのかもしれない。

 

つまるところ、「野暮は揉まれて粋となる」

旨いこと言ったものですね。

"はてなダイアリー"から"はてなブログ"へのインポート完了

先日、"はてなダイアリー"からのインポートができないと書いた後に、

"はてなブログ開発ブログ"に文句のコメントを入れたところ、

突然インポートができるようになって、あっさり完了してしまった。

たまたまタイミングがよかっただけのことなんだろうけど、

なんだか自分がクレーマーになったような気がして

逆にちょっといやな気分になってしまった。これも勝手な言い草ではあるけれど。

 

ともかく、引っ越し完了。

ここから"はてなブログ"のみの記事となる。

 

f:id:fujisawa-zuan:20180610152757j:plain

"はてなダイアリー"終了のお知らせ だけど"はてなブログ"にインポートできない

yahooニュースで知ったのだが、こちらのお知らせにあるように、
当ブログもずっとお世話になっていた"はてなダイアリー"がサービス終了するそうだ。
とは言えここ数年は1年に1つか2つ更新する程度で、放置と言ってよい状態だったし、
"はてなダイヤリー"と"はてなブログ"、似たようなサービスを
なぜいつまでも並行してやってるのだろうと思っていたクチなので
サービスが終わるからといって、困ることもなければ、不服も特にない。
「長い間お世話になりました」ということしかない。
こんな過疎ブログでも、続けていなければ経験できなかったことだって、ささやかながらあったのだ。
 
とはいえ、更新の滞るようになった近年は、
自分にとってブログって何よ?と考えさせられるようにもなったし、
続ける意義というのも今ひとつわからなくなっていたところもあったので、
これを機にブログなどというのも辞めてしまおうかとも思ったのだった。
 
ところで、上記のリンク記事を読むと「"はてなダイアリー"から"はてなブログ"に移行できるぞ」と書いてある。
せっかくなので移行してみようと思い(続けるとは言ってない)
急遽はてなブログを作って、「記事のインポート」なることにトライしてみた。
続けるかどうかは置いといて、今まで書いたテキストが残せるのなら残しておこう、と思ったのだ。
同記事において「"はてなダイアリー"を移行しなかったとしても閲覧できるように残しておくよー」とは書いてあるが
そもそも「"はてなダイアリー"はやめないよー」と言っていたにもかかわらず
辞めてしまうようなはてな運営の言うことなど、信じろと言っても難しいだろう。
 
ともあれ、いざ「記事のインポート」をやってみると、こんな表示が出て先に進めない。

 
いや、「"ダイヤリー"の記事を"ブログ"の方に移せ」と言っているのは
運営しているはてな側のくせに
いざ言うこときいてやってみたら
「混んでるから待て」って、なんだそれ?
と思ってあらためてリンク記事を見たら、
8月30日付で「一時的に(インポートの)機能を停止」している旨が追記してあった。
そうですか。
ただ、続けて「対応完了には数日かかる見通しです」と書いてあるけど
数日はとっくに経ってるぞ。