雑駁記——藤沢図案制作所——

ざっぱく【雑駁】(名・形動) 雑然としていて、まとまりのないさま。「_な知識」「文明の_なるを知らず、其動くを知らず」〈文明論之概略諭吉〉

「創作展 感じるパッケージデザイン展」 Come Together(解説編)

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「シュッとしたもの」というのは、関西でデザインの仕事をしていると、よく出てくる言葉じゃないかなと思う。

もちろん、そうでないもの、例えば、親しみやすいものとか、楽しいものとか、フワっとしたものとか、他にもいろいろあるだろう。けれども、それらを手がけるときでも、どこかでデザインとして「シュッと」することは念頭に置いている気がする。というのも、この言葉は、クールさ、シャープさ、緊張感といったことのみならず、仕事としての完成度の高さや、頭ひとつ抜けた出来、という意味合いも含まれているだろうからだ。要するに「ええモン」ということだけれど、そう言うとまたニュアンスが異なってくるような気もする。

ちなみに、「関西で」と断ったのは、「シュッとした」という言い方がどうやら関西弁?大阪弁?らしいからだ。と言うことは、関東とか中部とかのデザイナーに「シュッとしてますねえ」とか言っても褒め言葉にはならないのかもしれない。つくづく言葉というのは難しい。 

 

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「言葉はなくても伝わる」作品展で、いきなり言葉にこだわってしまったが、とにかく、そんな何だかんだで「シュッとしたもの」なのだけれど、はじめは、「シュッ」の「シ」の字も念頭になかった。図柄ではなく、造形として箱にストライプ—縦縞—の要素を加えられないだろうか、というちょっとしたことでしかなかった。いろいろと試しているうちに、見る角度によって中に仕込んだゲスの色が見えてきたり、モアレ状の模様が浮かんできたりするのが面白いかな、という気がしてきた。正直なところ、すでにどこかで誰かがもっと面白い活かし方をしているかもしれない。それくらい、アイディアとしては何てことのないものだと思っている。

 

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この作品が「シュッとしたもの」かどうかは心もとないのだけれど、制作をすすめるうちに「シュッ」というのがキーワードに思われてきた。天面に現れて消えていく感じとか、紙そのものにかかっている力の具合とか——言葉のような、音のような。オノマトペ?ああ、やっぱり「シュッ」は関西弁なのだな。

 

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また、「シュッ」と言えばビートルズの「Come Together」のイントロである。デザインとは関係ないけれど、誰が何と言おうとそうだ。印象的なベースのフレーズと、ハイハットからタムへのロールにのせて囁かれる「シュッ」。「Come Together」のあれは、本当は「Shoot me」と言っているらしいが、そんなことはこの際知らない。実際「me」なんて聞こえない。あれは「シュッ」だ。

 

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だったら作品は4つ並べなければいけないだろう。イントロで「シュッ」は4回言ってるし、ビートルズは4人だ。つまり、この4つの箱は、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴでもある。それぞれどれが誰か、というのはこの際よしとして。

 

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ごめんなさい、それ以上の意味は特に無いです。というか、意味を持たせるとどうしても言葉が介在してくるし、そうなると今回のテーマと乖離してくるじゃないですか。だから、あまり意味は無いということにしてます。

 

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ともかく、誰でもできるシンプルな工作で見えてくる。紙の造形を面白がっていただけたらと思う。

「ちょっとしたこと」が「シュッとしたもの」になることだって、あり得るかもしれない。

「創作展 感じるパッケージデザイン展」 2 (検討篇)

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天面のみをずっと作っていたが、ようやくこのあたりから箱として作りとか寸法とかを決めていく。真ん中のものがここでは一番古く、まだ通常の蓋と身箱の前提で考えている。この真ん中のものはティッシュの箱に見えて仕方がない。天地左右の比率やスリット群の入り方のバランスからそう見えてしまうのだろう。

写真ではわかりにくいけれど、奥のものが基本的な構造で、これは左右の側面は身箱のみで、蓋は「コの字」型になっていて身箱を包み、センターの帯で留めるという構成にした。

 

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構造は決まったけれど、寸法はまだ決まっていない。上の3つは全部微妙にサイズが違う。

 

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スリットの入れ方にしてもいろいろとバリエーションは考えられる。それらバリエーションを見せることで展示物とならないか、と考えてみた。と言うか、やっと展示のことにまで気が回るようになってきた。タイトルを決めて、そこから4つ並べることにした。

 

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この頃、展覧会ウェブサイト用の画像や作品説明を送る。寸法も使う紙もカラーリングも、まだ決まっていない。

 

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今回の作品展は白い作品が多く出るだろうな、と思いつつも、紙の色は、白—グレイから離れることができなかった。決めきれないまま長堀橋のペーパーボイス大阪へ行き、紙を数種類購入した。紙を選ぶ際には、スタッフの方のアドバイスに助けられた。

 

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本製作用の候補の紙。ディープマットという紙(右)と、キュリアスマターという紙(左)で組んでみる。平面の状態で見たらいい感じだったのが、組んでみたらボール紙に見えてくる。

 

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サイズの検討は相変わらず。というか、まだ決まらない。本紙になって、紙の厚みも変わったので、それもサイズ決めに影響してしまう。とりあえず4つ並べて完成したときの感じを想像してみる。

 

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ここまで来て構造が気になってきたので変更した。右が変更前、左が変更後。

側面の差し込みかたを変更して、隙間が見えないような構造に(正確には隙間のできる位置を)変えた。

 

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違いなどわからないだろうけれど、写真最下段の白いものが最終版。キュリアスマターの白で作るとなんだか死装束みたいだ。

しかしこの作品、箱=パッケージとして見ると、デメリットだらけだ。

天面を切り刻んでいるため剛性は落ちるし、その天面は造形状膨らんでしまうので積むこともできない。帯にひねりを入れて差し込むにはコツがいるため、量産も難しい。ギフトボックスとしてなら用途としてあるかもしれないけれど、持ち運ぶ際につぶれないよう気を使うことは間違いないだろう。中のものを保護するための箱に気を使わなくてはいけないなんて、本末転倒ではないか。

 

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ともかく、最終版の展開図がこちら。

これをプリントして切り出して組めば、誰でも同じものを作ることができる。

「創作展 感じるパッケージデザイン展」 1 (試作篇)

JPDA(日本パッケージデザイン協会)の企画展。

僕としては、「言葉はなくても伝わる」という言葉にこだわっていてはどうもならないので、とりあえず何か作ってみることにした。

 

コンセプトワークというのは、言ってみれば「概念の言語化」だ。言葉によって構築された概念が、デザイン作業の軸となり指標となるし、プレゼンテーションの際に、受け手が納得するロジックやキーワードもそこから導きだされる。

なのだが、とりあえず、その過程をとっぱらって、紙と定規とカッターナイフを用意するところから始めた。

 

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ストライプ(縦縞)をプリントではなく造形でできないだろうかと思いたち、いろいろ試してみた。はじめは、紙を折ることで縞模様を作ろうとしていたのだが、上手くいかないのでスリットを入れることにした。上の写真はかなり試行錯誤を重ねた後のもの。切り込みを入れて、隣り合う帯を上下互い違いになるよう、間に柱と言うか支えになるような紙片を入れてみた。

 

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天面のスリットの入り方や支えの入れ方をいろいろと試してみる。

 

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この時点で製作行程上の「弱み」となっている上下スリットの支えがあることが、見た目の上でも目障りというか気になるので、「切る」だけでストライプを作れないかとやってみるが、上手くいかない。中にはこれはこれで違うことができそうなものも無くはないのだけれど。

 

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ふと、プロペラ状のひねりを入れることを思いつく。この写真のものだけ正方形になっていることに深い意味はなく、まだこの時点では最終的にどんな作品になるのか全く見えていなかったため。ひたすらスリットを使った造形のみを試行錯誤していた。

 

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ようやく、「支えの紙片を見せてしまおう」ということに思い至ったもの。

これを思いつくまでに実に1ヶ月近くかかった。もちろん毎日毎日朝から晩まで紙を切り刻んでいたわけではないけれど。

「創作展 感じるパッケージデザイン展」 0 (思索篇)

日本パッケージデザイン協会では、定期的に会員デザイナーによる作品展を開催している。

前回は「日本を包む」と題して、日本語/日本の言葉を8つえらび、それらを”包む”パッケージを提案する、という趣向だった。

今回のタイトルは「感じるパッケージデザイン」、”感じる”=”言葉はなくても伝わる”デザイン、ということになった。

前回の企画で、日本語を包む試みは遣り切った、ということなのだろうか。 …日本語ってそんなに小さな世界かなあ。それこそ「いき」という言葉ひとつにしても、実に奥深く、幅広い世界があると思うのだが(個人の感想です)。

 

さて、「言葉はなくても伝わる」とは、どういうことだろう。

単純に考えれば、パッケージ/グラフィックデザインにおいて、日常的に行われていることにも思える。

例えば、芳香剤のパッケージに柔らかい曲線や澄んだ色を配したり、日本酒のラベルが和紙に書かれた筆文字をあしらうのは、それぞれ「製品独自の良い香り」や「日本の伝統」といったことを言外に伝えたいからだろう。

思いついたうちで秀逸なの例として、ネピアの「鼻セレブ」なんかいいなあと思う。動物たちの顔の写真のトリミングの仕方やかわいらしさやが、頻繁に鼻をかむ人にとってやさしい使い心地であることが感じられる、実に巧いデザインだと思う。

また、プロダクトデザインにおいては、質感や機能性を伝えるということは基本的な命題だろうし、説明書なしに製品を使えるようなボタンの配置/パネルのデザインにも心砕いていることだろう。

ボタンと言えば、ピクトグラムも言葉を介しないで情報を伝えるデザインの手段だろう。「こちらへどうぞ」「ここがトイレです」「電源ボタンです」「音量が上がります」こうした内容が言葉無しに理解できる。街中で日本語を使わずに案内をすることは、今後もっと重要になってくるだろう。

けれども、芳香剤や日本酒の例では、上のように言葉にできてしまう時点で、”言葉”を”ビジュアル”に翻訳したにすぎない、とも考えられる。ピクトグラムなど逆説的にその最たる例だろう。どんなにビジュアル表現を駆使したところで、伝えたい感覚や概念は言葉ではないだろうか。つまりは、言葉を使ってなくても、その裏には”言葉があるデザイン”ではないか、ということだ。

伝えたいことが”言葉”である以上、それは「言葉はなくても伝わる」デザインとは言えないのではないかと思う。

 

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ならば、「言葉はなくても伝わる」とは、「言葉にできない感覚や概念」があり、それがなんらかの表現方法によって他者に伝わる、ということだろうか。

一見、正解のようにも思えるけれど、これはさすがに理想的すぎるし、具体性にも欠ける。そもそも「言葉にできない感覚や概念」とは何だろう?それは説明できた時点で「言葉にできない感覚や概念」ではなくなってしまう。つまるところ、この定義は絵空事ではないかと思える。

 

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要するによくわからないテーマである。少なくとも僕には、よくわからない。

協会が、こういうよくわからないテーマでもって、何を現代の日本に発信したいのか、当然ながらそれもわからない。

こんなことでは、作品など作れはしない。

ぐだぐだ言っても仕方ないので、ぐだぐだ言うことはやめにして、つまりは言葉を封印して、とりあえず手を動かすことにした。

とっかかりは全く無かったわけではないけれど、今回のテーマを尊重して、ここではあえてそれを言葉にはしない。

ともかく、そのとっかかりに依ることで、箱を作ろうとしたのだった。

 

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九鬼周造 「『いき』の構造」

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常に「いき」な大人でいようと思いはしても、なかなか敷居は高いものだ。

せめて不粋ではいたくない/野暮な人にはなりたくない、くらいは意識して過ごしていきたいとは思う。それとてかなり難しいことではあるけれど。

さて、この「いき=粋」だの「不粋」だの「野暮」だのという言葉、正確にはどういう意なのだろう。あらためてそんな疑問が浮かんだおりに出会ったのが本書である。

青空文庫でも読むことができる、おそらく古典と呼んでさしつかえないだろう。

 

著者の九鬼周造は哲学者であり、この本も哲学書である。だからというわけではないけれど「いき=粋ってこういうことなんだ!」なんて明快にわかる、という読後感は持てない。

文章も決して平易ではない。

例えば、「”上品/下品”は、人性的一般性に基づく、対自性の区別である」などと言われてもなんだかわからない(ここだけ抜粋してもわからなくて当然ではあるけれど)。

 

個人的に興味深かったのは、まず三章の「『いき』の外延的構造」。

「いき」となんらかの関係を持つ言葉をあげて、それらを関連づけて最終的に図に表現している。

「そこまで上手いこと割り切れるものかなあ」という懐疑心もなくはないけど、少なくともデザインをする上での指標の一つにはなりうると思う。

 

また、五章の「『いき』の芸術的表現」においては、文様(特に縞模様)や色彩についての、つまりはグラフィックデザインについての原則的・実践的な示唆と読むこともでき、前述した三章と合わせ、今でも通用するクリエイティブにおけるルールを見つけることができる。

ここは図版があればもっと解りやすかっただろうに、なんてことも思うけれど。

 

図版が無いということは、この本を読む以前にさまざまな「いき」な文物などを見聞きしていて、それらから「お、粋だねえ」という感覚を覚えたことのない人には、本書で説かれていることはちんぷんかんぷんかもしれないということも言えるだろう。

事実、長唄などの日本の音楽に見られる(この場合は聴かれる、か)粋についてのくだりはそうした曲を聴いたことのない僕にはさっぱりわからなかった。

 

とは言え、「日本人がなんとなく了解していながら、ついに誰一人として説明を省いてきたこと(「松岡正剛の千夜一冊」より引用)」を定義しようとする姿勢くらいは理解できるし、わからないなりに通読すれば、それまでなんとなく使っていた「いき=粋」という言葉の解像度が何段階か上がる感覚は持つことができると思う。

そんな風にして、自分の中の「いき=粋」の概念をバージョンアップすることで、あらためて「いき」な大人でいること、不粋や野暮でいないことの難しさもいまいちど感じてしまう。

結局は本書を物差しのひとつとしつつ、これからも経験を重ねて、自分なりの「いき」の構造を構築していくほかないのかもしれない。

 

つまるところ、「野暮は揉まれて粋となる」

旨いこと言ったものですね。