雑駁記——藤沢図案制作所——

ざっぱく【雑駁】(名・形動) 雑然としていて、まとまりのないさま。「_な知識」「文明の_なるを知らず、其動くを知らず」〈文明論之概略諭吉〉

Robert Frank 「THE AMERICANS」 STEIDL版

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アメリカの中間選挙が行われ、その結果が出た。

上院は共和党過半数で、下院は民主党過半数になったそうだ。

この結果がドナルド・トランプにとって良いことなのかどうか、ひいてはアメリカ合衆国にとって良いことなのかどうかは全く解らない。

ただ、過去50年で最高になりそうだという投票率の上昇は、良くも悪くも彼の功績と言っていいのではないだろうか。

 

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さて、本稿のお題「THE AMERICANS」は、巨匠、ロバート・フランクのあまりにも有名な写真集で、1958年に出版されて以来、何度も版を重ねている。そのたびに、装丁が違っていたり、実はトリミングが違っていたりとか、いろいろと変遷があるらしい。

僕の持っているのは2008年発行のSTEIDL版、ハードカバー。それまでの版とどこが違うかは知らない。

 

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というか、巨匠などと書いてはみたが、写真業界に疎い僕は、ロバート・フランクという写真家のことをほとんど知らない。

知っているのは、ローリング・ストーンズの1972年のアルバム「メインストリートのならず者」のジャケットに彼の写真が使われているということと、

その後の1972年ツアーの模様を撮影したがお蔵入りとなった(にも関わらずやけに有名な)ドキュメンタリー映画「コックサッカー・ブルース」の監督だということくらいだ。

 

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この写真集についても、なぜそんなに名作扱いされているのか、僕にはわからない(もともと、写真集の見方/楽しみ方を心得ていない、僕の感受性に難があるせいだけれど)。

収められた写真は1955年から56年に撮影されたという。

ベトナム戦争は始まったところで、まだ泥沼化はしていなかった。「トムとジェリー」は作品のピークは過ぎていたがまだハンナ=バーバラが手がけていた。ブルーノートはリード・マイルスによるクールなアートワークとともに黄金期を迎えていた。そしてエルビス・プレスリーGibson SJ-200を抱えて、今にも表舞台に登場せんとしていた。言ってみればアメリカが元気だった時代である。

にもかかわらず、どのページを開いても感じるのは、まず「倦怠」だと思う。

日々の暮らしの疲れ、うがった見方をすれば、元気であることの疲れ、かもしれない。それらが声高に主張されることなく、じわりと感じさせられてくる。

決して見ていて楽しい写真たちではない。でも、たぶんここには、ある種の真実が写されているのだろう。

 

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はじめは、アメリカの中間選挙のことなどは念頭に無いまま、この写真集を久々に開いてパラパラと眺めていただけだった。それがなんでこんな文章を書くにいたったかというと、頁をめくっていくうちに、この写真たちが60年前に撮られたものではない気がしてきたからだ。

写真に焼き付けられた空気が、報道から感じられる今の気分と共振しているように思えてきたのだ。

もしかしたら、今のアメリカも、「AMERICANS」の頃と同じくらい疲れているのではないだろうか。

 

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ジョージ・ワシントンエイブラハム・リンカーンは、自分の国—アメリカ—が「AMERICANS」みたいな表情を晒すことを望んでいたとは、当然ながら思えない。

谷崎潤一郎 「卍」 函の修復

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「卍」は好きな小説だ。

内容はけして健全ではなく、とは言え当時は攻めていたであろう内容も、今の目からみればそれほどでもない点もあろうけれど、読み物としての面白さは今でも全然損なわれていないと思う。

なにより小説の舞台がうちの近所というのが、他の小説とはちょっと異なる思い入れを感じてしまう。今ではモーターボートやそれに引かれる水上スキー、ウィンドサーフィンなどでにぎわう香櫨園浜が、かつては海水浴場で、その当時の様子が小説に描かれており、知ってはいてもそこらの描写を読むと不思議な心持ちになる。

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「卍」の初版本は、美本でなければそれほど高価ではない。もちろん本の価格としてみればかなりのものだけれど、例えば「お艶殺し」(千章館刊)なんて、ギブソンES-335の新品が買えちゃう値段だったりするわけで、それと比べれば実にかわいいものである。

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過日に入手したこの本は「函イタミ」とのことでそれなりの値段。和綴じの本じたいはとても綺麗なので、けして悪い買物ではあるまい、と自分に言い聞かせる。ところがその函がなかなかのもので、「イタミ」というよりはボロボロである。天と底がぱっくり割れており、くわえて前の持ち主はセロテープで張り合わせていた始末。

そもそも昔の本の函は、多くの場合、今とくらべるとかなりタイトな寸法で作られていて、折りのところで破れているものをよく見かける。

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せめて本のケースとして使えるようになってほしいなと思い、「卍」の函の修復作業をした。
破れた角を突き合わせて接着するため、和紙で糊代を作って張り合わせた。

ちなみに、使用したのは名塩和紙。西宮の海側を舞台にした小説を、西宮の山側で漉かれた和紙で補修したことになる。どうでもいいことだけど。

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函としては、これで十分かたちになるので、これ以上の作業は必要ない、と思ったのだけれど、どうしても外側——見た目が気になってきた。

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ということで、外側からの補強と、色のかすれや破れの修復を兼ねて手持ちの色つき和紙を貼り付け。それにしてもこの紙の色が違い過ぎる。本来ならば近い色の紙をちゃんと探すべきなのだが、この辺りが我ながら詰めの甘いところだ。

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貼った和紙の色が違い過ぎるので、とうとう水彩絵具をのせて強引に色をあわせた。
最後に和紙の毛羽立ちをマットメディウムでおさえて、心残りはあるけど完了。

心残り、というのは、画像でもよく見ればわかるかもしれないけれど、おそらくニスによる艶の有無で「卍」と刷られている。これをマスキングしてクリアをエアブラシしてもう少し強調しようか…と考えたけれど、さすがに失敗したら怖いので、やめておくことにした。

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本の函としては機能するようになったけど、古本としての値打ちはガタ落ちだろう。

「創作展 感じるパッケージデザイン展」 関西展、終了しました

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そもそも展覧会の期日等をろくに書いていなかったかもしれないけれど、京都の嶋臺ギャラリーにて10月4日より開催されていた「創作展 感じるパッケーデザイン展」、10月11日の最終日を無事迎えることができました。

ご来場くださった方、行くことはできなかったけど興味を持っていただいた方、展覧会にご協力いただいた方々に、展覧会委員のれん作成担当としてお礼申し上げます。

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正直なところ、今回のテーマ〈言葉はなくても伝わるデザイン〉で一体なにができるんだ?と、かなり懐疑的な姿勢で参加したのだけれど、搬入日に会場に展示された作品を見て、すごく幅広い答がずらりと並んだことに感服しました。さすがに皆さんプロのデザイナーである。

会場の様子などは、InstagramのJPDA展覧会のページもご参照ください。前回の展覧会の画像も見られます。

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ところで、展覧会の搬入・搬出は、JPDA展覧会の委員はもちろん、出展者にもご協力いただき、つまりはJPDA会員によって行われるのだが、毎度のことながらこれがまあ手際良くてここでも感服してしまう。

期せずして似たような角度から撮った写真があるので上下2枚をならべてみる。

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下段の写真は搬出の様子。左に積んであるのが梱包の終わった展示台。

上の写真から下の状態になるまでがほぼ1時間。念のために言うと、展示スペースはここだけではない。なにしろ全部で100点の作品が展示されていたのだ。嘘みたいだけど、本当にほぼ1時間で約100点の作品の梱包をして、組み立て式の展示台を分解して箱につめる一連の作業が済んでしまった。当人達の予測を超える早さで段取り良く進んでしまい、むしろ呆れて笑ってしまう程だった。

実のところ、僕は搬入・搬出のバタバタ感は嫌いではない。体を動かすことは大嫌いだけれど、みんなでわーっと準備・撤収をするときというのは、ある種のお祭りの醍醐味の一つではないかとすら思っている。

できれば、次回の展覧会のときは、搬入・搬出の様子を動画で撮ってYouTubeにアップしたいくらいだ。本当に手際いいんだから。さすがに皆さんプロのデザイナーである。

「創作展 感じるパッケージデザイン展」 Come Together(解説編)

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「シュッとしたもの」というのは、関西でデザインの仕事をしていると、よく出てくる言葉じゃないかなと思う。

もちろん、そうでないもの、例えば、親しみやすいものとか、楽しいものとか、フワっとしたものとか、他にもいろいろあるだろう。けれども、それらを手がけるときでも、どこかでデザインとして「シュッと」することは念頭に置いている気がする。というのも、この言葉は、クールさ、シャープさ、緊張感といったことのみならず、仕事としての完成度の高さや、頭ひとつ抜けた出来、という意味合いも含まれているだろうからだ。要するに「ええモン」ということだけれど、そう言うとまたニュアンスが異なってくるような気もする。

ちなみに、「関西で」と断ったのは、「シュッとした」という言い方がどうやら関西弁?大阪弁?らしいからだ。と言うことは、関東とか中部とかのデザイナーに「シュッとしてますねえ」とか言っても褒め言葉にはならないのかもしれない。つくづく言葉というのは難しい。 

 

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「言葉はなくても伝わる」作品展で、いきなり言葉にこだわってしまったが、とにかく、そんな何だかんだで「シュッとしたもの」なのだけれど、はじめは、「シュッ」の「シ」の字も念頭になかった。図柄ではなく、造形として箱にストライプ—縦縞—の要素を加えられないだろうか、というちょっとしたことでしかなかった。いろいろと試しているうちに、見る角度によって中に仕込んだゲスの色が見えてきたり、モアレ状の模様が浮かんできたりするのが面白いかな、という気がしてきた。正直なところ、すでにどこかで誰かがもっと面白い活かし方をしているかもしれない。それくらい、アイディアとしては何てことのないものだと思っている。

 

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この作品が「シュッとしたもの」かどうかは心もとないのだけれど、制作をすすめるうちに「シュッ」というのがキーワードに思われてきた。天面に現れて消えていく感じとか、紙そのものにかかっている力の具合とか——言葉のような、音のような。オノマトペ?ああ、やっぱり「シュッ」は関西弁なのだな。

 

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また、「シュッ」と言えばビートルズの「Come Together」のイントロである。デザインとは関係ないけれど、誰が何と言おうとそうだ。印象的なベースのフレーズと、ハイハットからタムへのロールにのせて囁かれる「シュッ」。「Come Together」のあれは、本当は「Shoot me」と言っているらしいが、そんなことはこの際知らない。実際「me」なんて聞こえない。あれは「シュッ」だ。

 

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だったら作品は4つ並べなければいけないだろう。イントロで「シュッ」は4回言ってるし、ビートルズは4人だ。つまり、この4つの箱は、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴでもある。それぞれどれが誰か、というのはこの際よしとして。

 

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ごめんなさい、それ以上の意味は特に無いです。というか、意味を持たせるとどうしても言葉が介在してくるし、そうなると今回のテーマと乖離してくるじゃないですか。だから、あまり意味は無いということにしてます。

 

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ともかく、誰でもできるシンプルな工作で見えてくる。紙の造形を面白がっていただけたらと思う。

「ちょっとしたこと」が「シュッとしたもの」になることだって、あり得るかもしれない。

「創作展 感じるパッケージデザイン展」 2 (検討篇)

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天面のみをずっと作っていたが、ようやくこのあたりから箱として作りとか寸法とかを決めていく。真ん中のものがここでは一番古く、まだ通常の蓋と身箱の前提で考えている。この真ん中のものはティッシュの箱に見えて仕方がない。天地左右の比率やスリット群の入り方のバランスからそう見えてしまうのだろう。

写真ではわかりにくいけれど、奥のものが基本的な構造で、これは左右の側面は身箱のみで、蓋は「コの字」型になっていて身箱を包み、センターの帯で留めるという構成にした。

 

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構造は決まったけれど、寸法はまだ決まっていない。上の3つは全部微妙にサイズが違う。

 

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スリットの入れ方にしてもいろいろとバリエーションは考えられる。それらバリエーションを見せることで展示物とならないか、と考えてみた。と言うか、やっと展示のことにまで気が回るようになってきた。タイトルを決めて、そこから4つ並べることにした。

 

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この頃、展覧会ウェブサイト用の画像や作品説明を送る。寸法も使う紙もカラーリングも、まだ決まっていない。

 

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今回の作品展は白い作品が多く出るだろうな、と思いつつも、紙の色は、白—グレイから離れることができなかった。決めきれないまま長堀橋のペーパーボイス大阪へ行き、紙を数種類購入した。紙を選ぶ際には、スタッフの方のアドバイスに助けられた。

 

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本製作用の候補の紙。ディープマットという紙(右)と、キュリアスマターという紙(左)で組んでみる。平面の状態で見たらいい感じだったのが、組んでみたらボール紙に見えてくる。

 

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サイズの検討は相変わらず。というか、まだ決まらない。本紙になって、紙の厚みも変わったので、それもサイズ決めに影響してしまう。とりあえず4つ並べて完成したときの感じを想像してみる。

 

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ここまで来て構造が気になってきたので変更した。右が変更前、左が変更後。

側面の差し込みかたを変更して、隙間が見えないような構造に(正確には隙間のできる位置を)変えた。

 

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違いなどわからないだろうけれど、写真最下段の白いものが最終版。キュリアスマターの白で作るとなんだか死装束みたいだ。

しかしこの作品、箱=パッケージとして見ると、デメリットだらけだ。

天面を切り刻んでいるため剛性は落ちるし、その天面は造形状膨らんでしまうので積むこともできない。帯にひねりを入れて差し込むにはコツがいるため、量産も難しい。ギフトボックスとしてなら用途としてあるかもしれないけれど、持ち運ぶ際につぶれないよう気を使うことは間違いないだろう。中のものを保護するための箱に気を使わなくてはいけないなんて、本末転倒ではないか。

 

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ともかく、最終版の展開図がこちら。

これをプリントして切り出して組めば、誰でも同じものを作ることができる。