雑駁記——藤沢図案制作所——

ざっぱく【雑駁】(名・形動) 雑然としていて、まとまりのないさま。「_な知識」「文明の_なるを知らず、其動くを知らず」〈文明論之概略諭吉〉

「暦物語」にかこつけた本についての雑感

 
暦物語」 ベルトルト・ブレヒト著 矢川澄子訳 現代思潮社 1963年発行。
数年前(思い出せない)に梅田・かっぱ横町の古書店で購入。
ブレヒトという作家のことは何も知りません。旧東ドイツの作家らしいけど、彼の著作が今でも普通に読めるかどうかも不明。一時期ロンドンに亡命していたりと、当時の共産圏の作家ならではの苦労もあった人のようです。
この本は、ブレヒトの初期のものも含む作品集。題材は「古代ギリシャから東洋・中国にまでわたり、時代的には第二次世界大戦中の出来事にまで及」ぶ、短いけど、いかにも海外の小説といった風情の洒脱にまとまった短編と詩で構成されております。パラパラと読むには丁度良い具合の一冊です。
 
けれども、僕がこの本で一番好きなのは、装幀だったりします。そもそも、碌に知りもしない作家の本に金を払う気にさせた_レコードで言うところの「ジャケ買い」ですね_くらいなのだから。
で、先日初めて奥付をじっくり見てみたら、「装幀/渋沢竜彦」とあります。これって澁澤龍彦のこと?あの人って装幀もしてたの?
 
調べてみたらそのようです。のみならず、訳者の矢川澄子さんって、「ぞうのパバール」とかを訳した人で、澁澤龍彦の最初の奥さんだったんだって。
 
ともかく、あらためて眺めてみると、さもありなんというデザインではあります。
ケースにあしらわれた銅版画と思しき絵。表紙は黒いビニルクロス貼で、背表紙にのみ、オレンジのホットスタンプでタイトルと著者・訳者名が記してあります。ちなみにカバーは透明のフィルムだったのですが、これが元のままなのか、別にカバーがあったものが無くなったのかはわかりません。ケースに使われた同じ図版でカバーがあしらわれてるというのもなんだかかえって安っぽいと思うのですが。
中世のものだろう表紙絵は銀刷りの紙に刷られていて、各篇の扉はコート紙。その扉の図版はトランプでしょうか、タロットカードでしょうか?これも判りません。各々使われている図版は直接的には本編の内容とも、図版じたいも関わりが無いようなのだけれど、本のムードを高めるというか、良い演出効果となっています。
また、本文の紙は少々薄いと感じるかもしれませんが、そのおかげでどのページも無理なく開くことができ、読み易いです。
現在の文芸書としての派手さは皆無だけれど、ともかく趣味がよろしい。活版印刷だから、ところどころ裏写りしているページもあるのだけれど、それすら好印象になってしまいます。
手にとってページをめくるだけで、ささやかながら豊かな気分になれるし、「嗚呼、本つてかふいふものだつたよなあ」とすら思わされます。←時代錯誤
  
 
特に根拠の無い個人的な思い込みなのですが、1980年代くらいまでの本は、今と比べて造りがしっかりしているんじゃないでしょうか。
もちろん、酸性紙の問題とか一概に昔の本が良かったとは言い難い面もあるけれど、それでもなおかつ、今の本の方が、装幀云々以前に、本の造り自体が安っぽくなっているように感じるのですね。書店(最近は滅多に行かないのだけれど)で平積みされているハードカバーなんて、一番上の本の表紙が浮いているのも見かけるし(経年変化でさらに反ってくるんじゃないかと心配なんですが)、持ち運びのことを考慮してか、やけに軽い紙を使っているのも気になります。本って読むものだぞ?少々重くてもたかが知れてると思うのだけどな。
 
もちろん「書いてある中身が良ければいいんだ」というのもひとつの見解ではあるけれど、文字(書体)やその字組み、紙質や手触り、そして手に感じる重さだって本を構成する大切な要素だと言えないでしょうか?ましてや趣味としての読書_単にテクストを読む行為(=作業)ではないはず_そうした要素は一層大切なのではないでしょうか?
話はすっかり横滑りしてしまいましたが、そんな訳で、僕は資料としての有用性はともかく、「読書のツール」としては、今のところ電子書籍いらない派です。