「創作展 感じるパッケージデザイン展」 0 (思索篇)
日本パッケージデザイン協会では、定期的に会員デザイナーによる作品展を開催している。
前回は「日本を包む」と題して、日本語/日本の言葉を8つえらび、それらを”包む”パッケージを提案する、という趣向だった。
今回のタイトルは「感じるパッケージデザイン」、”感じる”=”言葉はなくても伝わる”デザイン、ということになった。
前回の企画で、日本語を包む試みは遣り切った、ということなのだろうか。 …日本語ってそんなに小さな世界かなあ。それこそ「いき」という言葉ひとつにしても、実に奥深く、幅広い世界があると思うのだが(個人の感想です)。
さて、「言葉はなくても伝わる」とは、どういうことだろう。
単純に考えれば、パッケージ/グラフィックデザインにおいて、日常的に行われていることにも思える。
例えば、芳香剤のパッケージに柔らかい曲線や澄んだ色を配したり、日本酒のラベルが和紙に書かれた筆文字をあしらうのは、それぞれ「製品独自の良い香り」や「日本の伝統」といったことを言外に伝えたいからだろう。
思いついたうちで秀逸なの例として、ネピアの「鼻セレブ」なんかいいなあと思う。動物たちの顔の写真のトリミングの仕方やかわいらしさやが、頻繁に鼻をかむ人にとってやさしい使い心地であることが感じられる、実に巧いデザインだと思う。
また、プロダクトデザインにおいては、質感や機能性を伝えるということは基本的な命題だろうし、説明書なしに製品を使えるようなボタンの配置/パネルのデザインにも心砕いていることだろう。
ボタンと言えば、ピクトグラムも言葉を介しないで情報を伝えるデザインの手段だろう。「こちらへどうぞ」「ここがトイレです」「電源ボタンです」「音量が上がります」こうした内容が言葉無しに理解できる。街中で日本語を使わずに案内をすることは、今後もっと重要になってくるだろう。
けれども、芳香剤や日本酒の例では、上のように言葉にできてしまう時点で、”言葉”を”ビジュアル”に翻訳したにすぎない、とも考えられる。ピクトグラムなど逆説的にその最たる例だろう。どんなにビジュアル表現を駆使したところで、伝えたい感覚や概念は言葉ではないだろうか。つまりは、言葉を使ってなくても、その裏には”言葉があるデザイン”ではないか、ということだ。
伝えたいことが”言葉”である以上、それは「言葉はなくても伝わる」デザインとは言えないのではないかと思う。
ならば、「言葉はなくても伝わる」とは、「言葉にできない感覚や概念」があり、それがなんらかの表現方法によって他者に伝わる、ということだろうか。
一見、正解のようにも思えるけれど、これはさすがに理想的すぎるし、具体性にも欠ける。そもそも「言葉にできない感覚や概念」とは何だろう?それは説明できた時点で「言葉にできない感覚や概念」ではなくなってしまう。つまるところ、この定義は絵空事ではないかと思える。
要するによくわからないテーマである。少なくとも僕には、よくわからない。
協会が、こういうよくわからないテーマでもって、何を現代の日本に発信したいのか、当然ながらそれもわからない。
こんなことでは、作品など作れはしない。
ぐだぐだ言っても仕方ないので、ぐだぐだ言うことはやめにして、つまりは言葉を封印して、とりあえず手を動かすことにした。
とっかかりは全く無かったわけではないけれど、今回のテーマを尊重して、ここではあえてそれを言葉にはしない。
ともかく、そのとっかかりに依ることで、箱を作ろうとしたのだった。